仕事で、30数年ぶりに降り立った駅は、ずいぶんと様変わりしていた。
このアーケードの商店街だけが、私の古い記憶と一致している。
しかし、変わりゆくものを、それほど嫌とは思わない。
桜、のせいかもしれない。
仕事で、30数年ぶりに降り立った駅は、ずいぶんと様変わりしていた。
このアーケードの商店街だけが、私の古い記憶と一致している。
しかし、変わりゆくものを、それほど嫌とは思わない。
桜、のせいかもしれない。
あっという間に咲いた。
あっという間に散るのかもしれない。
誇るように、惜しむように、眺める朝。
会社までの道を、すこしだけ遠回りして歩く。
この春は、毎年通っていた「いつもの桜」は見られそうにない。
名所に居並ぶ桜たちには比ぶべくもない。
けれども。
ここを私だけの宴の場所とする。
わずか数分の花の宴。
そして自宅近くの帰路はもう夜。
月と花と、なぜか電線に心和む。
凛と咲き 艶と散りたし 花一輪 誰が見るとも 誰も見ずとも
イルミネーションの季節、毎年、ここで写真を撮っている。
でも。
同じじゃない。
自然いっぱいの田舎もいいが、都会も好きだ。
人工の灯りに惹かれるのは、そこに人の営みを感じるから。
だから、人か車か何か動くものを一緒に撮りたい。
みんないろいろあったのよ。
他人が知らないだけで。
それぞれの仕事納め。
それぞれの年の暮れ。
特別きれい、ってわけじゃない。
丘の上から観る、百万ドルの夜景には敵わない。
でも。
私は、こういうのが好きなんだ。
見知らぬ誰かだけど、生きて働いているつかの間。
東京駅は「ミチテラス2014」のライトアップ中。
どこが「大正浪漫」の色なんだか、よくわからないけれども(^_^;)
私は、いつものライトアップのほうが好き。
無粋な工事フェンスも客待ちのタクシー渋滞も、いいのよ、だって東京駅だから。
仮面を外すのは、いつもでなくていい。
ほんのときどきでも。
ただひとりの前だけでも。
心身ともに限界だと思ったので、先週から今日の休みは告げてあった。
コスモスを見に行きたかったけれど、季節がすこし遅い感じ。
何より、電車に乗って出かける体力がなさそうだった。
このところ、毎日の通勤が、仕事よりも辛い。
痛み止めを飲んで、薔薇園には歩いて行った。
体力は言い訳で、本当のところは電車賃が惜しいのかもしれなかった。
デジイチを首に掛けて撮り歩いていたら、ものの30分で吐き気がしてきた。
首と肩の痛みゆえ、通勤のバッグのショルダーをやめたが、改善するふうはない。
コンデジに換えるも、出来上がりに差はない(^_^;)
本体だけを買うのが精一杯で、レンズにまで手が回らないのならば、デジイチの意味はないというべきだが、自分の稼ぎで自分の一存で自分の道楽のものを買う、ということをしてみたかったのだと思う。
その目的なら、十分に果たされた。
世間では汎用されているが、私には贅沢なシロモノ。
持っているだけで良い(^_^;)
日に日に自覚症状は悪化している。
会社でも2時を過ぎると、頭痛と吐き気との闘いになる。
もう1ヵ月半、下痢が止まらない。
リンパ腺のところがやたら痛い。
午後はお約束のように発熱。
ただの気のせい、疲れのせい、年のせいと思うことにしている。
人に言えば、病院に行けと言われるに決まっている。
しかし、その人がカネを出してくれるわけではない。
たとえばMRIの8000円は、私の1ヶ月分の食費に近い。
無理をするな、仕事を休めと言ってくれる人もいるが、その人が私と実家を養ってくれるわけでもない。
その人が、母を看てくれるはずもない。
ならば。
言ってくれるな。
春と秋の2度、ここの薔薇を撮り続けて、10年になる。
だが、今日の薔薇は、これまで見たどの薔薇より、格別に美しく感じる。
次はもうないかもしれないと思えばこそ。
このひとつひとつの芽にも根があり、名前があり、いのちがある。
心に届く美しさには限りがない。