奈良に行こうと思っていたこの秋。
今年の春までは。
でも、叶わなくなった。
墓参の帰りに途中下車して、すこしだけ自分の時間。
なんで私ばっかり、という気持ちと戦って勝つための栄養剤。
奈良に行こうと思っていたこの秋。
今年の春までは。
でも、叶わなくなった。
墓参の帰りに途中下車して、すこしだけ自分の時間。
なんで私ばっかり、という気持ちと戦って勝つための栄養剤。
何かを犠牲にしなければ、何かは得られない。
あるいは、誰かを。
この梅を見るために、病人と老人のいる実家に嘘をつき、繁忙期の職場を半日休ませてもらった。
申し訳なさと後ろめたさを「でも」と「だって」で覆いながら、秒単位で走る。
慌ただしい花見。
けれど。
このひとときがなかったら。
私は、呆けた母と病の兄を殺して、自分も死んでいたかもしれない、と思う。
明日の夜は、9時前には仕事を終えよう。
家に帰ろう。
ご飯を食べて、テレビを見て、ブログを読んだり書いたりする、普通の、それでいて今は得難い暮らし。
熱のある日に、コスモスとバラを見に行った。
何かの予感があったといえばあったような。
ただのタイミングの一致とすれば、そうとも思える。
でも。
行っておいて良かった。
できるときに、無理をしてもやっておく。
しなかったら、二度とできないこともある。
2015年の10月12日の薔薇は、一度しか見られない。
まだ見ぬ明日へ。
それが望むものではないと、容易に予想がつくことであっても。
生きていくということは。
日々、抱かずにいられぬ小さな希望を、上手に絶望に変えていくこと。
明日から、しばらく無沙汰の予定。
あっちも、こっちも。
<(_ _)>
私の望む明日は。
願う幸せは。
毎日、仕事を終えたら、自宅に帰れること。
花を惜しむのではなく、時を惜しむ。
ねじこむように作った時間で、花を見に走る。
今年はコスモスを見られずに過ぎるかと覚悟していた。
でも、無理をしたらできた。
身体を休める時間はなくなったけれど、心は凪いだ。
しなやかに、たおやかに。
これからも、無理を通す。
だから。
無理しないで、と言わないで欲しい。
無理をしなかったら、何も手に入らない。